ゆるい目的地

久々に散歩をした。いつも歩いているコースが3種類ほどあるけれど、そのどのコースにもけっこう飽きたので、新しいコース開拓を兼ねていた。

働き出してから散歩をめっきりしなくなった。ニートだったころは、「何かしている」という感覚や体面を得るために散歩をよくしていた。圧倒的インドア派ではあるものの、引きこもり続けているのも何かまずい気がして、とにかく外に出る口実を欲した。そうやって自分はまともであると誰かに示したかった。そんなことでまともかまともじゃないかなんて判定できないな、と今なら思うけど、その頃は劣等感にまみれていて、発想が極端だった。幸い、Pikmin Bloomという歩数計アプリゲームがあって、それを利用しながら歩いていた。時間は有り余るほどあって、その時間を名実ともに潰せる散歩という活動が心の支えになっているところがあったように思う。

でも最近では億劫な活動の1つとなってしまった。通勤・退勤時に歩いているし。何事も必要最低限の活動で済ませたい性格なので、散歩も仕事場に行く歩きも変わらんだろ、と思いつつ、しかし落ち込みがちでゲームすら気晴らしにならない最近を考えると、これくらいしか息抜きが思いつかず、なんだかなあ、と思いながら散歩に向かった。

特にルートも目的地も決めなかった。自分が気になるな、と思った方向を歩くだけ。始めは歩くのだるいな、こんなことして何の意味があるんだ、と思ってたけど、歩いているうちにちょっとずつ心に刺激を受けているのが分かった。薄い空、生ぬるい風、揺れる花、ちょっとさびれた看板。別になんということはない。それなりに知っている道ではあった。しかし、職場に行くときや、くたくたに疲れて帰るときとはやっぱり何かが違った。たぶん、目的地がゆるかったからだと思う。当たり前かもしれないけど、焦燥感がない。鬱屈感もない。どこに行こうが何をしようが自由。そして帰る場所がある。ひとりで好きなところに歩いていっていいという心持ちは、物悲しさの溜まった心の何かを慰めてくれる気がした。

 

先日急に糸がぷっつり切れたように、また元気をなくしてしまった。またかよ、と机に突っ伏したくなる。いい加減にしろよ、と自分が歯がゆい。繰り返しの日常があることのありがたさと、その途方のなさにめまいがする。散歩はたまにならするかもしれない。じわじわと考えを刺激し、生きのびるための柔軟性をなんとか保つ。