惰性じゃなければなんでもいいや

個人的に気まずい人との話が終わった。

まあ、その人に感じていた気まずさは昨日なぜか急に整理がついたので、そこまでではなかったものの、やっぱりゼロではない。ちょっと身構えながら挨拶しに行った。

いろいろ話し合って、とりあえず一山越えたと言ったところか。思いの外計画が具体的になって、自分で始めたことにも関わらず、さっそくめんどくさくなっている。具体的に一緒に考えてくれる人がいるのは恵まれてることなのに、先のことを考えるとため息ばかりが出てくる。やるべきことも増えた。

ただ、やるべきことがあるというのはありがたい話でもある。長らく無職をやっているわけだが、社会に必要とされてないかもしれないと思いながら長い時間を過ごすのは、シンプルな毒である。焦燥感と自責の念が毎日自分を苛む。人の役に立ちたい、何らかの形で社会の歯車として機能したいという気持ちが膨れ上がる。

仕事を恒常的にするようになったとして、山積みのタスクに辟易し続けるのもまた毒なんだろうけど、することがないのも立派な毒だと思う。

明日死ぬかもしれないと思って生きなさい、という言葉がある。これはちょっと極端だからとっつきにくいけど、とにかくいつか自分が死ぬときに、あのとき無為に過ごした時間を持ってきて寿命として使えないかなあと願うような時間は減らしておきたいと思う。別に無為な時間を埋めるのは仕事じゃなくても、ゲームでも読書でもなんでもいいんだよな。小さくても、やりたい、やる、やった、っていうサイクルを大事にしときたい。

自分でやっててけっこう達成感が出るのは、時間を区切ることだった。特にゲーム。30分とか1時間とかタイマーで測ってプレイすると、だらだらやった3時間プレイよりどういうわけか充実感がある。区切りがあるとできるだけのことをやろうとするから、ダラダラやるより集中できるのかな。原理はよくわからないけど、時間で区切るっていうやり方は自分には合ってる。

今後の計画を立てただけだけど疲れたので、今日は早めに休んで好きなことします。