銀色の短歌

笹井宏之の短歌に出会ったのは、まだTwitterをやっていた去年の夏だった。

フォローしていたアカウントが、

かなしみにふれているのにあたたかい わたしもう壊れているのかも

という短歌を作者の名前付きでツイートしていて、自分のことだ、と思った。どこか救われたような気がしたのを覚えている。当時、自分は精神が最下層を這っており、悲しみと自責にまみれ、時折自死について考えていた。

今この短歌を読んでも当時の自分のことだと感じるし、それと同時に、こんなに悲しい短歌に共感できるほど追いつめられていたことに愕然とする。ガラスの破片をむりやり固めたような、触れたらうっかり血が出そうな短歌なのに。

これではまずいと病院に行き、支援をしてくれるところにも通い、就職して忙しい毎日に身を投じると、この短歌は自分の中に存在はするものの薄れていくようになった。

 

再び笹井宏之の名前に出会ったのは、10月にNHKで放送された特集番組だった。その名と、歌人だったことを聞いた瞬間、この人だ、と直感した。調べてみると、一年前のあの苦しい日々の象徴のような短歌を残したその人だった。

BGMのほとんどないその特集や、26歳で亡くなったことがしばらく頭から離れなくて、彼の歌集を読みたいなと思った。半ば使命感にも駆られていた。歌集を読むことで、あのとききっと同じ底で悲しみを歌ってくれた笹井宏之に恩返しができるような気がした。

やっぱり最初はこれだろうと思って、上に引用した短歌が載っている『てんとろり』を買って読んだ。買おうと思ったのはごく最近のことなのに、なぜかやっと出会えたような気がした。一句一句が染み入ってくるようだった。心臓に刻まれるような切なさがある。

短い文字数で構成された文芸には、小説とはまた違う力を持っている。不思議なもので、短いからこそ世界が無限に広がるような感じがする。笹井宏之の短歌の世界観は銀色に輝く空と海を想起させた。大事に持っておこうと思う。そして、他の歌集もぜひ本棚に加えたい。

最後に、いくつか好きな短歌を引用。

 

暮れなずむホームをふたりぽろぽろと音符のように歩きましたね

寂しさでつくられている本棚に人の死なない小説を置く

午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる

感傷のまぶたにそっとゆびをおく 救われるのはいつも私だ